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[鍵・錠ものがたりー鍵・錠をめぐる歴史ばなし]第3話 意外に「現代的」?―古代の人類と鍵

鍵・錠ものがたりー鍵・錠をめぐる歴史ばなし

遠い昔より、人類と「鍵」は深い関係にあった。そのルーツは現代にも受け継がれている。
今回は古代における人類と鍵の関係をひも解いていく。

発掘された「鍵」

第1話では、長く人類の中にある「鍵」へのイメージについて書いてきた。しかし、人類のアイデンティティの確立のためだけに使われたわけではない。現代の我々と同様、古代より物理セキュリティの1つとして運用されていた。その形跡は世界各地で出土された遺跡・史料でうかがうことが出来る。日本においては、福岡県では天満宮や博物館で有名な太宰府周辺をはじめ、各地で物理セキュリティに関連する史料が多く出土されている。

出土されたものは大きく2種類に分類される。1つは「海老錠」と言われる、今でも我々が使っている「鍵」と「錠前」が1セットになったもの。もう1つは「クルル鉤」「鎰(イツ)」などと言われる海老錠とは形状が異なるもので、こちらは現在でも神社や古い民家でも見ることが出来る、いわゆる「閂(かんぬき)錠」に近いものが発見されている。「海老錠」は調度品などなるべく小規模のものを物理的に守るために使用され、対して「クルル鉤」「鎰」に関しては建築物、人、あるいはそれに関わる財産全般といった大規模、広い分野のものを守るために作られていたと言われている。

考古学からみる「日本最古の鍵」

大阪府の野々上遺跡(大阪府)は、7世紀半ばに建立された野中寺を中心としていている。
この北東端の遺構から錠が発掘された。これが「日本最古の鍵(錠)」と言える。
出土した錠は長さ17.2㎝の海老錠で、少し離れた場所で和櫃(わびつ・調度品を入れる箱)に錠をかける金具の痕跡が発掘された。この痕跡と錠の形状が一致したため、この和櫃の施錠のために使われたものと推測される。この他、奈良県明日香村でも錠前が発掘されているが、野々上遺跡で出土されたものは明日香村より約35年前のものと推定されている。

意外にバリエーションが豊富?

今も出土品や一部の寺院で大切に扱われていたこれらの鍵・錠の姿は当時の帳簿関連の資料にもいくつか遺されている。

『奉写二部大般若経銭用帳』(天平宝字6年・762年)の中には東大寺写経所で必要な物品を東西市で購入しており、その中に錠前も含まれていた記録がある。

また『法隆寺伽藍縁起并資財帳』(天平19年・747年)には法隆寺のような有力寺院が、自らが所有する土地に鏁子を配布していた記録がある。法隆寺と同様に他の寺社や貴族なども同様の方法で自分たちの土地にある生産物や書類の管理者にこうした備品を供給していたと思われる。

材質は銀、金銅、銅、鉄と鉄製に行く毎にランクがある。金銅製の錠前はその出土範囲と数量から、国府以上の上位の官庁、有力寺院に限定されていたと推測される。また他の材質のものと比較し花、昆虫の意匠をとっているものもあり、後世の和錠文化のさきがけのような華やかなデザインのものも出土されている。
大きさと施錠対象は、あくまで仮の想定ではあるが、全長約13㎝から最大でも17㎝が多く、正倉院の小櫃(こびつ)、厨子(ずし)といった屋内の調度品を対象にして利用されているものが多かったと考えられている。少し時代が進むと「鎰(やく)」を「門之加岐(かぎ)」、「鉤匙(こうし)」を「戸之加岐」、「鏁子(さす)」を「蔵之加岐」と区分けがなされていた記録が登場する。順に施錠対象の規模が大きくなり、蔵のための錠も登場した。
いずれも専門的な鍛冶職人、製造業者は存在せず、官営の工房で他の金物と合わせて製作されていたと思われる。

これらは当時どのように流通していたのだろうか。
その答えに、先程紹介した『奉写二部大般若経銭用帳』(天平宝字6年・762年)にはサイズ、種別、販売金額の記録が遺されている。サイズ・種別によるが110文から50文で売られていたとされている。貨幣経済が少しずつ始まっていく中、食料品や日用品の取引はほとんど物々交換で行われていた時代において、鍵・錠の購入はある意味「大きな買い物」だったのかもしれない。

シルクロードを経て

 

各地で出土された2種類の鍵、その仕組のルーツははるか古代エジプトにまでさかのぼることができる。
エジプトはナイル川沿いにカルナックという都市がある。こちらには大神殿の遺跡が遺り、かつて栄えた高度な文明、そして生活文化や政治・経済にいたる多くの物事を今に伝えている。この大神殿の回廊の柱には錠前の絵が刻まれている。この絵が示す鍵は「エジプト錠」と言われている。この「エジプト錠」が、世界の錠前の歴史を知る上で具体的な姿と仕組みと存在した年代がはっきりと結びつく貴重な資料とされている。「エジプト錠」のすがたは「閂錠」と類似している。その解錠方法は錠前の本体の中に数本のピンのような部品が固定され、スパゲッティで使うくし型のトングのような鍵を使い解錠する仕組みとなっている。現在の鍵の基本的な仕組みのルーツが、このエジプト錠に既に備わっていたのだ。
このエジプト錠の誕生から十数世紀を経て、古代ギリシアでもエジプトと同様に神殿で「閂錠」と類似した鍵と錠前が利用されていたと言われている。
こちらの場合は錠前を設置している場所の上下に1つずつ穴を開け、解錠の際は上部の穴に鎌のような形状をした鍵を差し込み、鍵の先で閂を押し戻す。施錠(戸締まり)の際は閂の下に紐を取り付け、その紐の先を閂の下に開けた穴から外部へ出しておく。この紐を引くことで閂がスライドし、戸の枠に入り込んでロックされるという仕組みである。この仕組が取り入れられたのは、ごく一部の富裕層のみであった。一般庶民の戸締まりは紐を複雑な形状で結ぶ戸締まりが一般的だったと言われている。

古代ローマの時代に入ると、その材質は木製に加え金属製のものも登場した。

正倉院に遺る「現役」の「古代の鍵・錠」

正倉院中倉の黒柿蘇芳染小櫃(くろがきすおうぞめこびつ)、赤漆桐小櫃(せきしつきりこびつ)についている銅製の錠前がある。
これらが1000年を超えて今も「現役」で使用されている「海老錠」である。赤漆桐小櫃には弦部両端の弦通し孔外側に宝珠型の膨らみがあり、弦部端には弦通し孔を貫通せずに宝珠型の膨らみの中で止まっているものと思われる。また製作年代は不明ではあるが、東大寺の混合八角灯籠に掛けられている錠前も同種とされている。加えて同寺に伝わる、もとは正倉院にあった長さ56㎝に及ぶ鉄製錠前はその形態から中国・朝鮮から渡って来た錠前にさらにアレンジを加えたものと考えられている。

 

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