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[鍵・錠ものがたりー鍵・錠をめぐる歴史ばなし]第4話 ウチの家紋、なんだか変わっているんです―鍵・錠と家紋・紋章

鍵・錠ものがたりー鍵・錠をめぐる歴史ばなし

遠い昔より、人類と「鍵」は深い関係にあった。そのルーツは現代にも受け継がれている。
今回はヨーロッパを中心に、鍵・錠前と印章(印鑑)、紋章・家紋の意外な関係をご紹介。

サインと印章

年度末、年度はじまりの時期を迎え、書類の手続きに忙しい、という方も多いだろう。
ここ最近はオンラインでの書類手続きも増え、印章(印鑑)・サインに対しての捉え方が少しずつ変わってきてはいるが、日本においてはいまだ印鑑や三文判での手続きが一般的である。対してヨーロッパはサインの習慣が根付いているイメージが根強い。しかし、かつて日本では花押と呼ばれるサインの習慣があり、ヨーロッパでは14世紀の終わりごろまで印章が使われていた。

印章のルーツ

印章のルーツは古代オリエントで用いられた円筒型の印章がルーツと言われている。国王は独自の印章(玉印)を、教皇は聖人であるペテロとパウロの像の印章を使用していた。権威の象徴として用いられることが多く、当初は王侯・貴族・聖職者といった限られた層が利用していた。
13世紀以降に入ると都市のコミュニティを示すアイテムとして、ツンフト(手工業者の同職組合)や商人の間でも広く用いられるようになった。13世紀まで円形だった印章はやがて14世紀に差し掛かると、その後登場する紋章の影響を色濃く受け、盾型になる傾向に変わっていった。
これらの印章・紋章には鍵をモチーフとして採用されたデザインも多くある。

印章からサインへ

ヨーロッパは契約社会であり、印章による証明への需要は高かった。
しかし15~16世紀に入り、次第にサインに取って代わられることになる。
サインが普及したのは、いくつか説がある
・盗難により印章が悪用されることを避けた
・教育の普及により署名が出来るようになった
・古代以来あった印章に内在する呪詛的信仰が時代を経て薄らいでいた
防犯上の観点から生み出されたサインは、ルネサンスに入り個が尊重され、自己の存在証明として唯一無二であるという風潮と相まって普及を加速させ、図案は印章から紋章へ引き継がれていった。

紋章のルーツ

「紋章」は語源的には「武器」から派生したものと言われている。(Waffen「武器」→Wappen「紋章」)
紋章の直接のルーツは、11世紀後半から12世紀ごろ騎士が甲冑に身を固め、顔まで覆ったヘルメットを着用するようになったことにはじまる。
甲冑を着用することで視界が狭まり、戦闘時に肉眼で敵味方を判断することが難しくなったのだ。この時間違って味方を攻撃しないための対策として、盾に目印として紋様を描いたことが紋章の始まりとされている。この慣習は十字軍にまで広がり、盾だけではなく、ヘルメット・戦闘着・馬の防具・旗にもつけられるようになった。戦場のみならず、長槍を用いた馬上の試合においても、貴婦人や観衆に存在をアピールするために装飾紋様を用いた。
紋章はその後世襲制となり、やがて14~15世紀ごろにかけて、紋章の最盛期を迎える。17世紀になるとブルジョワジーの勃興とともに、日本における家紋と同様に紋章を用いる場合もあった。
さらに19世紀から20世紀にかけて、紋章の「ルネサンス」と言われるほど、あらたに都市共同体の紋章が制定されている。ドイツにおいて最もよく用いられる具体的なモチーフは、鷲やライオンの動物、城郭や十字などであるが、鍵もかなり重要な位置を占めている。鍵の紋章には、印章と同様にペテロの鍵に由来するものが圧倒的に多い。その他、鍵のツンフト(手工業者の同職組合)に端を発する別系統のものも存在する。

都市の紋章―モチーフとして採用された鍵

ヨーロッパの都市の印章において最古と言われているのがドイツ、トリーアの印章である。
1149年にケルンとトリーアで「関税同盟」が締結された際に印章が用いられ、これが後にトリーアの都市の印章となった。これはヨーロッパの都市の印章では最古と言われている。

この印章の初期の図案では、中央に位置するキリストが典型的なゴシック様式の鍵を持ち、その左右にペテロとトリーアの初代司教であるエウカリウスが控え、鍵に手を差し伸べている。その下に4人の市民が同じく鍵の方に手を差し出し、これらの像を壁が取り囲むという図案になっている。周囲には「都市とその市民のために神の加護があらんことを」という文言も刻まれており、この印章では鍵が神の祝福と加護の象徴、都市の統治を象徴する都市へ繋がる門の鍵として描かれている。

ペテロの鍵

教皇をはじめとした聖職者やドイツ国内の各都市の紋章にはしばしば「ペテロの鍵」をモチーフとした図案を採用している。
これはイエスが聖ペテロに「2つの鍵」を与えると言った福音書の記載に由来している。(マタイによる福音書第16章)これらの鍵は許す力と神の言葉を共有する力を表現し、結果的に鍵が他者を天国に入れる力を表現している。
「2つの鍵」は左右に交差し、紐で結ばれている図案が基本的なものとなっていることが多い。右の鍵は天の国における権威を示し、左の鍵は地上における教皇の司法権を意味している。鍵の先は上、または天を指し、鍵の握り部分はこの世を指している。2つの鍵を結ぶ紐は天国とこの世に渡る二つの権威の関係を示しているとされている。

都市の紋章―モチーフとして採用された鍵


ローマ教皇の2つの鍵を交差させた紋章を三重冠で飾ったのはヨハンネス22世にはじまるとされる。この紋章で扱われた鍵はゴシック様式のものである。
教皇紋章にならってカトリックの聖職者には、紋章の帽子の色や房の数によってそれぞれの身分を表すとりきめがあった。

カトリックの鍵の紋章に関連して、教皇のバジリカ傘(パヴィリオン)の図案もある。バジリカとはかつて王が祭祀を執り行う場所だったが、やがてキリスト教会堂や大寺院を指すようになった。これとペテロの鍵と組み合わせたエンブレムが15世紀頃から登場してくる。これは教皇の逝去時、教皇冠だけは柩の上に置かれるが、鍵は置かれない。これは教皇の法的権限が無くなったことを指し、次の新たな教皇が選ばれるまでパヴィリオンの下にある盾の背後の移すことで、教皇の座の権力を守るとも言われている。
宗教的な鍵の紋章は都市の紋章にも大きな影響を与えている。例えばドイツのケルン、クサンテン、ブレーメンはその典型である。この他、ツンフト(手工業者の同職組合)にちなんだ例としてレーゲンスブルクなどがある。この場合は錠前職人に由来した都市紋章として鍵のモチーフを採用している。

日本における印章・家紋と鍵

ヨーロッパにおける印章・紋章の流通と同様に、日本においても印章、紋章(家紋)と鍵は縁が深い。
日本においては、奈良時代(8世紀)に、宮中や諸国の役所といった公的機関で使うことに限定された印章が生まれた。ちょうど海老錠を使い出したころと同時代である。
しかしこれらはヨーロッパにおける図柄を取り入れたデザインとは異なり、機関や地名を文字で示したものが主流であった。日本における図案としての「鍵」の採用は、平安時代末期(12世紀)の家紋の登場まで待つことになる。

鍵がモチーフとして採用された背景には、稲荷信仰と縁が深い。
収穫した米は倉に収納された。この倉に神(稲荷神)が宿るものと信仰されていた。この倉の管理に必須だった道具が、まさしく鍵である。鍵は防犯だけではなく、豊穣を迎えるための祈念の象徴とされていたのだ。稲荷神社に渦を巻いたような形の鍵をくわえた狐の像が見られるのはこのことからと言われている。
こうした信仰の背景から鍵は豊かさの象徴として、着物、帯、蒔絵などにモチーフとして採用され、後に家紋にも取り入れられた。その形状は、稲荷神社などで見かける古くからある渦を巻いたようなモチーフから、時代が下り円に柄が付いているモチーフに桐や瓢箪をかけあわせたデザインへと広がりを見せた。
渦を巻いた形状のものは稲妻型とも言われるが、古代より建築物の鍵として利用されていた鉤匙(こうし)の形状をモデルにしており、円に柄が付いているものは江戸時代を主軸に流通したウォード式の鍵をモデルとしている。
しかしこれらの家紋は、少子化や文化の変化により一般家庭での家紋の継承が少なくなり、これらの家紋を日常的に見る機会は少なくなってしまった。

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